バクラヴァ〔パレスチナ〕“職人技”が光る中東を代表する郷土菓子
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到着した空港で目に飛び込んできたヘブライ語の文字に、私の心は既に躍っていた。世界を旅していろんな言語に触れてきたが、ヘブライ語は初対面。中東エリアに来たんだなと強く感じたことを覚えている。長年関心が高いエリアだったのだが、2013年に同じ中東のトルコを訪ねた際には、そのまま東に向かってジョージア、アゼルバイジャン、カスピ海を渡りウズベキスタンへと移動したため、イスラエル周辺には足を運んだことがなかった。
首都エルサレムでは、ユダヤ教特有の帽子“キッパ”をかぶる男性を多く見かけたが、中でも“超正統派”と呼ばれる人々はあまりにも衝撃的だった。伝統の黒ずくめの衣装を身にまとい、黒い帽子に、長いもみあげが特徴。もちろん世界のどこでも出会ったことがない。そしてパレスチナは、多くがユダヤ教徒にもかかわらず想像以上にイスラムの文化が色濃く存在していて面白かった。時間になると街中に響き渡るコーランの音色も、異国を感じてゾワッとするし、実際に行ってみないと体感できないもののひとつだ。トルコは文明が発展している印象だったが、イスラエルやパレスチナでは、良い意味で時間が止まっているかのような感覚を味わった。
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そんな中東諸国で最も有名と言っても過言ではない郷土菓子が「バクラヴァ」だ。日本でも知る人ぞ知るというお菓子で、好きな方もいらっしゃるかもしれない。バクラヴァは、小麦粉を練って、限りなく薄く伸ばした生地を何層も重ねて焼き、シロップに浸したお菓子。オスマン帝国支配下の国々で広がったとされ、パリッとした生地の食感と、ジュワッと染みたシロップがおいしい。口の中を侵食していくような甘さが、一度食べたら忘れられない郷土菓子だ。ピスタチオを挟むのが定番だが、くるみがメインの国もあれば、ピスタチオに加えてヘーゼルナッツも多用する国もある。生地の厚さも、トルコは薄いがウズベキスタンは分厚いなど、国によって特徴が全く異なっていて、とても興味深かった。自分で作ったこともあるが、柔らかい生地の扱いが特に難しく、熟練の技がものを言う“職人のお菓子”という感じで、その域に到達してみたいと願うばかりだった。
24時まで営業している菓子店
エルサレムを堪能し、バスでパレスチナのナブルスという小さな町に向かった。国境で、言われるがままに乗り合いタクシーに乗り込み、舗装されていないでこぼこ道を数時間進む。車には10人ほどが乗っていたが、停留所があるわけでもなく、頼みの綱は目的地を伝えているドライバーのみだ。「クナーファ」という郷土菓子の発祥と言われている町でもある。中心部に到着してすぐ、若者に声をかけられた。親切なことにWi-Fiを貸してくれて、宿にも案内してくれた。夜になって町を散策してみようと歩いていると、出会う人はとても温かいし、お菓子屋ではなぜかプレゼントだと焼き菓子をくれたり、アジア人が相当珍しいようで、町ゆく人から一緒に写真を撮ってと頼まれたりもした。小さな田舎町だったが、凛(りん)としたモスクに、丘の上までせり立つ街並み、洞穴が並んだような市場など、どこもかしこも雑然としていて素敵だった。
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中心部でにぎわっているお店に入る。もちろんバクラヴァがずらりと並ぶ光景も目に入ったが、それよりも圧倒的に衝撃だったのは、店内がおじさんだらけだったことだ! 女性たちが可愛らしいスイーツを食べている……それがお菓子屋というものではないのか? しかも24時まで営業している。世界中でそんなお菓子屋には出会ったことがなかったので、とても驚いた。
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パレスチナは多くがイスラム教徒でお酒を飲まないから、酒場ではなくお菓子屋に集まり談笑する。そこが社交場なのだ。お酒を飲まない地域はお菓子をよく食べるという傾向も、旅を通して感じていた。パレスチナのバクラヴァは丁寧というより荒々しく、田舎っぽい良さがあった。
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ギシュタと呼ばれるカスタードクリームが挟まったバクラヴァは「ワルバット」と呼ばれており、他の国では見たことがなかった。大きさもトルコで見たそれより大ぶりで、愛嬌がある。1人前を頼むと5ピースも入っていて、全体的に量も多い。でもそれをおじさんたちは談笑しながら食し、入れ替わり立ち替わりでまたおじさんが入ってきては、大量にテイクアウトしていった。田舎の料理はなぜ、安くて多くてうまいのだろう。私はふと、そんなことを感じていた。
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そんなおじさんたちがひしめく店内に突如やってきたのは、コーヒー屋さんだった。今でこそ東京では売り歩きもほとんど見ないが、いつもこうやってお菓子屋さんを回っているのだろう。現地でしか味わえない体験が大好きな私は、早速注文してみる。値段は覚えていないが、安かったように思う。独特の容器から注がれる、熱々のコーヒー。口元まで運んだ時に、初めて気がついた。これは、「アラビックコーヒー」だ。カルダモン入りのコーヒーで、お菓子で甘々の口には、カルダモンの香りが広がる苦いコーヒーがとてもよく合っていた。
そこでしか出会えないものや定番を知るということは、その国の文化に触れるということ。それを経験するために、私は旅に出る。たとえ日本でおいしいバクラヴァを食べることができたとしても、こういった体験をも味わうことは不可能に等しい。一つひとつ出会いに刺激を受け、その経験値が財産となり、私をまた旅に向かわせるのだ。
2021-09-07
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