カカオが支えたガーナ共和国の経済成長
チョコレートの原料、カカオ豆の生産で知られる西アフリカのガーナ共和国は、1957年の独立以前は英国の植民地で英領ゴールド・コーストと呼ばれていました。
この地域への英国の本格的な進出は1821年に、この一帯の土地所有権を得た頃にさかのぼります。厳密にいうと、ガーナ独立直前のゴールド・コーストは、1874年英領植民地として確立。1946年に旧ゴールド・コーストを中心に、英領トーゴランド、アシャンティ、ファンテ保護領などを合併して成立したものでした。
ちなみに、“ガーナ”とは、西アフリカのソニンケ人の言葉で“戦士の王”という意味。8〜11世紀(諸説あります)、サハラ越えの金と岩塩の隊商貿易の中継地として繁栄した「ガーナ王国」と知られていました。ガーナ王国と現在のガーナ共和国の領域は重なっていませんが、それでも、ガーナ共和国独立の指導者として初代首相に就任したクワメ・エンクルマは、サブサハラ・アフリカ独立の先鞭(せんべん)をつけた新国家の名称として、ガーナ王国に由来する名前を採用しました。
現在、ガーナはコートジボワールに次ぐ世界第2位のカカオ生産国ですが、もともとは、英領時代に現金収入を欲した農民の自発的な意志により生産地域を拡大してきました。
当初、ガーナのカカオの大半は、大規模プランテーション農場ではなく、小規模自営農家の手によるもので、英領時代の1947年に設立されたカカオ流通公社が、すべてのカカオを買い取り、輸出を独占することで、カカオ農家が安定した収入を確保するという方式が採られていました。
ところが、独立後のガーナでは、エンクルマが“アフリカ社会主義”を掲げ、カカオのモノカルチャー経済からの脱却を目指して、急速な工業化を進め、工業をカカオに代わる経済の柱にすることを主張。その一環として、カカオ農場の農業集団化が強行され、農民の生産意欲が減退しただけでなく、生産効率も悪化。機械化に伴う費用負担だけが重くのしかかる最悪の事態となりました。
社会主義色を強め、中国やソ連との関係を強化していったエンクルマに対して、1966年、米CIA(中央情報局)の支援を受けたエマヌエル・コトカ大佐とアクワシ・アフリファ少佐による軍事クーデターが発生。エンクルマは失脚しましたが、強烈なカリスマ指導者を失ったガーナの政情は不安定化し、小規模自営農家によるカカオ栽培も再開されたものの、ガーナ経済は長らく低迷が続きました。
これに対して、1979年の軍事クーデターで政権を掌握したジェリー・ローリングス空軍大尉は政情の安定と経済再建を最優先課題とし、1983年以降、IMF(国際通貨基金)や世界銀行の構造調整計画を受け入れます。そして、1980年代後半から平均5%のGDP(国内総生産)成長率を達成し、政治と経済の安定化を進めました。そうした実績の上に、ローリングスは1992年に行われた民政移管の大統領選挙でも当選を果たして2001年まで大統領を務め、西アフリカでは数少ない議会制民主主義国家としての基盤を固めました。
さて、独立50周年を記念して2007年に発行された切手シートでは、ローリングス政権以降のガーナ経済を支えてきたCPC(Cocoa Processing Company:カカオ処理会社)の活動が紹介されています。
付加価値を与えられたカカオ豆
1980年代までのガーナは収穫したカカオの大半を輸出しており、そのことが、途上国にありがちな農産物モノカルチャーの経済構造から脱却できない足かせとなっていました。
そこで、カカオ豆に付加価値を与えて加工することを目的に、1981年11月、ココア工場と製菓工場からなるCPCが設立されます。さらに、1992年にはカカオ豆の国内取引が自由化され、農民からのココアの買い入れに関して、民間の公認仕入れ企業(LBC)が導入され、政府との価格競争を行うようになったことで、農民の収入も増加しました。
CPCのココア工場は、特選された高級なガーナ産カカオ豆だけを扱い、生カカオ豆を、半製品のココアのリキュール、バター、天然またはアルカリ性のケーキや粉末に加工しています。その業務を象徴するものとして、切手シートの右側には、上から、収穫された生カカオ豆、カカオ処理プラントでの作業、出荷する製品の包装作業を取り上げた切手が1枚ずつ収められています。
一方、シートの左側には、製菓工場で生産されるさまざまなチョコレート菓子が紹介されています。中段に取り上げられているチョコレートバーの包装紙で、赤、緑、黄の三色が目立っているのは、国旗の色に合わせたということなのかもしれません。
2020-02-18