監修:武田 友孝(たけだ・ともたか)
東京歯科大学口腔健康科学講座スポーツ歯学研究室特任教授 日本スポーツ歯科医学会認定医 日体協公認スポーツデンティスト 日本障がい者スポーツ協会公認障がい者スポーツ医
食事などの際に、何気なく行なっている「噛む」という動作。消化の促進、アゴの発達といった健康面のメリットが語られることが多いのですが、近年になって噛むことはスポーツにもよい効果を発揮することがわかってきました。「スポーツ歯学」と呼ばれ、「噛むこと」と「スポーツ」の関係についての研究が進められています。
■スポーツ歯学とは?
かつて日本では、「歯」や「噛むこと」がスポーツのパフォーマンスに影響を与えるとは考えられていませんでした。流れが変わったのは、1998年のバンコクアジア競技大会。歯科トラブルによって本来の力を発揮することができなかった選手がいたため、その後、日本オリンピック委員会から選手に対して歯科の検診が義務付けられるようになりました。
2011年に施行された「スポーツ基本法」の「スポーツに関する科学的研究の推進等」という項目では、『国は、医学、歯学、生理学、心理学、力学等のスポーツに関する諸科学を総合して実際的及び基礎的な研究を推進し、これらの研究の成果を活用してスポーツに関する施策の効果的な推進を図るものとする』と明記され、スポーツの科学的な研究領域として歯学も挙げられています。また2012年に策定された「スポーツ基本計画」でも、スポーツ振興の一環として医学などの他分野と連携した研究が求められるなど、スポーツにおいても重要な役割を担うようになっています。
武田先生のポイント解説!その1
コンディショニングは、体調管理はもちろんですが、歯の健康も大事です。例えば、オリンピック選手などのトップアスリートになると、海外に遠征する機会も多くなります。遠征時の飛行機移動で、虫歯があると膿の袋が気圧の変化で膨張・縮小し、歯の周辺の神経を圧迫して強い痛みを引き起こす場合があります。思わぬことがパフォーマンス低下の要因になりかねません。トップアスリートは、「歯医者が嫌い」などとは言っていられないのですね。
■噛むことはスポーツにどんな影響を与えるの?
「噛むこと」でどんなパフォーマンスの向上につながるのか、具体的にご紹介します。
1. 筋力アップ
重いものを持ち上げる場合など、グッと力を入れようとすると、自然と口の周りにも力が入っていませんか? さまざまな研究から、歯をしっかりと食いしばることで、筋力が4~6%程度アップすると言われています。数字にするとわずかですが、コンマ1秒を争うような競技では1%でも勝敗を分ける大きな差となりえるのです。
上下の歯が合わさると、「噛んだ」という情報が、脳の「運動野」という場所に伝達され、体を動かす「骨格筋」などの反応や動きに影響を与えます。力の入れ具合を調整するバロメーターの一つと言えるでしょう。
2. 重心、姿勢の安定効果
上下の歯でしっかりと噛めている場合と、噛み合わせが悪い場合とでは、重心動揺(直立した場合のふらつきなど)に違いがあり、噛み合わせが悪いと重心がブレやすいことがわかっています。特にポイントになるのが、犬歯より奥の歯です。前歯をカチカチ当てるのではなくて、しっかり奥で噛むようにしましょう。
また歯を噛みしめると、首にある胸鎖乳突筋などの筋肉に力が入り、首が安定します。首が安定すると体の軸がぶれないので、結果的に体が動かしやすくなったり視線が定まったりするため、パフォーマンスの質の向上につながります。
私たちの身体は姿勢を保とうとすると、咬筋(こうきん)という噛むための筋肉を働かせます。この時に咬筋は咀嚼筋の一部でありながら、反射的に「抗重力筋」として身体の平衡感覚の維持という役割を担うことになります。
3. その他
噛むことで認知機能を司る前頭前野の血流がよくなり、集中力と判断力が高められます。
また噛むことで唾液の分泌が促されるため、水分補給のしづらいサッカー選手などは、喉の渇きを抑える効果も含めてガムを噛んでいることがあります。
武田先生のポイント解説!その2
そもそもはラグビーやボクシングの世界で、歯の保護に役立てられていたマウスピースやマウスガード。ラグビーでの例になりますが、タックルを行う際、噛むことを意識した場合としなかった場合とでは、意識した方が頭の揺れが少なかったという報告もあります。これは、噛むことで首が安定したという何よりの証明で、歯を守るだけでなく、脳震盪(のうしんとう)を軽減させるという好影響も期待できるかと思われます。
■小中高生の噛む力と運動能力の関係
噛む力と運動能力の関係においては、やはりしっかりと噛める子どもの方がいい成績を収められることが、スポーツ能力テストの結果から明らかになっています。なかでも噛む力と筋出力パワーである握力との間に有意な相関関係が認められています。運動が苦手なお子さんは、噛むことを意識づけると運動能力の向上につながりやすいかもしれません。
■競技によって変わる「噛む力」
噛むことは筋力の発揮に有効に作用し、噛みしめると体軸を安定させます。しかし、速く身体を動かす場合は、常に噛むのではなく、噛むタイミングが重要です。
100メートル走を例に挙げると、一流の選手たちは、スタートから数メートルはしっかりと噛んで、後半は口の周りの力を緩めて走っています。これは噛むことでスタート時の姿勢を安定させると同時に、スピードに乗るために地面をより強く蹴っているから。後半は手足をスムーズに動かすため身体に余計な力が入らないよう噛む力を弱めリラックス状態をつくっているのです。
同じようなことは野球でも言えます。バッターがボールを打つ際、バットにボールが当たるまでは噛まずにリラックスした状態をつくり、ボールが当たる瞬間にグッと噛みしめてバットを握る手に力を入れています。
このように、基本的に身体の接触をともなわない競技でも、タイミングを意識してしっかりと噛むことで、さまざまなメリットがあることから、マウスピースが取り入れ始められています。
武田先生のポイント解説!その3
私は、プロ野球チームの千葉ロッテマリーンズで、「口腔健康セミナー」を担当しています。技術的なことだけではなく、プロの世界でも『噛むこと』が注目されつつあります。
選手の噛むバランスをチェックしてみると、口腔内の右側だけでしか噛んでいないという選手がいました。その選手に「左右でバランスよく噛んでみましょう」とアドバイスしたところ、後日聞いた話では、体のバランスがよくなり調子も上向いたとか。瞬間的なパワーを効率的、効果的に発揮するには、偏りなく噛めるというのも大事なのです。
いずれにしても、しっかり噛めるように普段から歯の手入れを心がけて下さい。
武田 友孝(たけだ ともたか)
東京歯科大学口腔健康科学講座スポーツ歯学研究室特任教授
日本スポーツ歯科医学会認定医
日体協公認スポーツデンティスト
日本障がい者スポーツ協会公認障がい者スポーツ医
(2023年7月現在)
歯学博士。2018年より東京歯科大学口腔健康科学講座スポーツ歯学研究室教授。2023年から現職。スポーツ歯学の研究に従事し、咀嚼や咬合と全身状態との関連の解明を行う。1997年から日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクターでもある。