前編
春とはまだ名ばかりの、梅のほころびかける頃。内気で清楚な十五歳の町娘小梅は、植木職人の父松造に届けるお弁当の風呂敷包みを抱えながら、長い塀の続くお屋敷町を歩いていました。
ゆるやかな坂道を、小梅はときどき歩を速めながら歩いていました。坂の上から、学生さんが歩いてきました。マントが時折風にふくらみました。ふたりがちょうどすれ違うときに、小梅は伏せていた顔をふっと上げました。そのしぐさに惹かれるように学生さんもふっと小梅のほうを見ました。その、刹那ともいえる一瞬で惹かれあったことにふたりは自分たちでさえ気づいてはいませんでした。
この日、(小梅の父・植木職人の)松造はこの界隈でも大きな綾小路(あやのこうじ)家のお屋敷で仕事をしていました。お弁当を届けにきた小梅が勝手口の戸を叩こうとすると、中から「真(まこと)様、いってらっしゃいまし」という声が聞こえ、木戸が開きました。小梅の目の前に現れたのは、あの学生さんでした。
声にならない驚きが、小梅の胸をふるわせました。小梅がまだ恋などと呼べない淡い想いを寄せた人は、綾小路家の真だったのです。 驚いたのは小梅ばかりではありませんでした。真もまた、突然目の前に現れた小梅に、挨拶の言葉すら出てこなかったのです。速くなる鼓動を、小梅は鎮めることができません。
小梅の父松造の綾小路家での仕事も、あと数日となりました。勝手口で真と偶然に行きあった日から、小梅はまた会うことを期待せずにはいられません。ここに来るのもあと少し…。そう思うと、小梅の心は淋しくなるのでした。真もまた、小梅と会えるのではないかと、小梅がやってくる時間に合わせて出かけることもしばしばでした。いつもは散策などしない庭に出ることもありました。
その日、勝手口ですれ違ったとき、真は初めてきちんと小梅に声をかけました。「そのかんざし、とてもお似合いですね。」小梅は右手でそっとかんざしに触れ、目を伏せました。どのような顔をしていいのか、小梅はわかりませんでした。そのとき、突風が吹きました。真は思わず帽子を片手で押さえました。それはふたりの淡い恋のゆくえを予感させる春一番だったのです。
松造は、はしごの上からふたりを見ていました。綾小路家の仕事もあと数日。この仕事が終わったら、真様と小梅が顔を合わせることもあるまい。会うことがなくなれば、真様もお忘れになるだろう、と。
その夜、松造は、小梅にこう告げました。小梅は真に二度と会ってはならない。口にこそ出しませんでしたが、父は自分たちと真とでは住む世界が違うのだということを小梅にわからせようとしたのです。
小梅は、自分は淡い夢を見ていたのだと思いました。その一方で、真摯に自分を見つめる真の瞳の中に、ただの夢とは思えない強さがあるのを感じていたのです。そして自分の気持ちの中にも。
その頃、若いふたりの想いとは裏腹に、綾小路家は大変な事態を迎えていました。綾小路のお家そのものが経済的な危機に陥っていたのです。そして綾小路家を存続させるために、資産家令嬢と真との縁談が持ち上がっていたのです。
真は悩みました。自分の将来は、自分のこの手の中にはないのだろうか。この話が小梅の耳に入らないことを、切に願うのでした。
しかし、真の縁談話は小梅の耳にも入り、小梅は悩みながら思いました。真様もきっと苦しんでいらっしゃるに違いない。想いを寄せる人が苦しむこと、それを思うと小梅の胸はますます痛むのでした。身を退くのは自分であることを、小梅は知っていました。
自分が身を退けば、真様はお家の存続と自分との間で板挟みになっているつらさからは開放されるだろう。小梅の心は決まりました。どこか遠くへ行こう。もう二度と、偶然になどあうことがないほど遠くへ。このとき、小梅は神戸に住む親戚を頼ってみようと、真と出会ったこの町を離れる決心をしたのでした。