後編
春まだ浅い、梅のほころびかける二月。小梅と真が出会ってから二度目の春が巡ってきました。小梅は父に届けるお弁当を小わきに抱え、お屋敷町を歩いていました。
帰り道、小梅は綾小路家の勝手口のある道へと遠回りしました。心の中で真に別れを告げるためでした。そのとき、勝手口の木戸が開いたのです。木戸を開けたのは、学生服姿の真でした。鉢合わせたふたりに言葉はなく、ただ時間が止まったように見つめ合うだけでした。
小梅は、「ご婚約、おめでとうございます」と努めて明るく真に告げました。そして自分も神戸の親戚のもとで働くつもりであることを話したのです。しかし真は、神戸に行くことにした小梅の真意を誤解しました。神戸というハイカラな町に惹かれて行くのだと思ったのです。真は落胆し、引き止められない今の自分を責めました。そんな真の微妙な心の変化までは、小梅には見抜けません。
小さな誤解が生まれたとて、離れがたい想いがふたりの間に流れていました。真様とはもうお会いできないかもしれない。そう思うと、小梅にとって目に映るすべての光景がいとおしく、そして美しく思えるのでした。
旅立ちの朝は、雲ひとつない青い空が広がっていました。出発の時刻が近づき、列車の窓越しに家族と別れを惜しむその向こうに、静かに立っている人がいました。学生服姿のその人は、まぎれもない真でした。真は列車の窓に近づき、一冊の本を手渡しました。交わす言葉を今のふたりは持っていません。発車のベルが駅舎に鳴り響き、列車はゆっくりと動きだしました。「お元気で」小梅の唇がそう動いたのを、真は見届けました。
小梅は初めて乗る長距離列車の固い椅子に身を預け、しばらく窓の外を見ていました。そして恋をして初めて涙をこぼしました。たとえ結ばれることのない恋でも、自分を想って見送りにきてくれた真のやさしさは、残酷にも小梅に淡い夢を見させます。
小梅は膝の上の本を広げました。それは英国の詩人の詩集でした。中ほどのページに、手紙が挟んでありました。手紙には、綾小路家とは違う住所が記され、男の人の名前の後に「方」と書かれていました。そして「連絡されたし」という一行。そのページにあったのは「雲雀(ひばり)へ」という詩でした。初めて読む英国の詩は少しむずかしいような気もしましたが、空高く自由に舞う雲雀の姿が目に浮かんできました。そこに真の願いを見る思いがして、小梅は理解しようと何度もその詩を読みました。
しかし小梅は、真に手紙を書こうとは思いませんでした。もうお別れしたのですから。お互いの立場の違いは、どんなことをしても埋められるものではないと、よくわかっていたのです。
神戸の陽射しは、やさしく小梅を包み込みました。小梅は、製パン小売業を営むおじおばの家に住み込み、店を手伝いました。
秋には正式に婚約する真。せめて元気でいることだけは伝えたいと、小梅は切に思いました。そして、「元気にしております」とひとこと手紙にしたため、あの住所へと送ったのでした。そのささやかな想いは水面に投げた小石のごとく、波紋を広げることになったのです。
その日、真からの手紙が届きました。真の手紙は短いものでしたが、小梅から連絡があったことをとても喜んでいる様子が文面から感じられました。小梅は、再び手紙を書こうかどうか悩みました。真様には大切な学業と、美智代様とのご婚約の予定がある。心の中でお別れを告げたあの梅春の寒い日が、小梅にはとても遠い日のように感じられました。真から離れた町で暮らすことで、小梅は淡い初恋に終止符を打ちたいと思っていました。
東京では、美智代が結納式を延期したいと言い出したことでちょっとした騒ぎになっていました。美智代は両親に、みんな正直に生きるべきだと伝えました。そのために、三人は苦しんでいるのだと。
真は悩みました。どちらの女性を選ぶかということではなく、自分自身の生き方、将来について、今こそ真剣に自分に問う時期でした。真の心は決まっていました。美智代の勇気ある提案に、真は感謝していたのです。それは真に決断するきっかけを与えました。
小梅のもとを真が訪れたのは、年が明け、梅のつぼみがふくらみかけたまだ寒い頃でした。真は、ついさっき到着したのだが今日の夜行列車で東京に戻らなければならない旨を告げました。その話を奥で聞いていた叔母は、小梅に真を駅まで送るように言いました。
ふたりは海に向かって坂を下りました。こんなふうに真と歩くのは初めてでした。それなのに、ふたりはもう何年も心を通わせた恋人同士のように、お互いの気持ちに寄り添い合っていました。真は、自分に正直になって決めたことを小梅に告げました。それは、英国に留学するという決断でした。
真は、みんなが新しい時代を生きるために、本当の自分を見つけるべきだと小梅に話しました。綾小路家の存続はむずかしくなるかもしれないが、自分は自分の力で生きていきたいと。小梅は、真の決断を美智代も喜んでいると聞いて安心しました。そして小梅もまた、少しずつ独り立ちできるようになった自分を頼もしく思うのです。
小梅と真は、駅のホームで堅く握手をしました。発車のベルが鳴りだしました。会えなくなる淋しさよりも、出会えて本当によかったと、今ふたりは強く心に噛みしめているのでした。